「なぜ生きる」を知りたい人へ

はじめに

「ママ パパへ

 わたしは いきていてもいみのない人げんです。わたしがいきていても みんながこまるだけです。
 ママパパ長いあいだおせわになりました。なにもいわず わたしをしなせてください。わたしはじごくで みんなのことをみまもっています」


 小学校2年の女の子の遺書である。
 自殺の増加と低年齢化に、世のなか戸惑っている。科学や医学などは急進したが、人類の闇はますます深まっているといえよう。
「強く生きよ」と励ます本が相次いでベストセラーになっているが、「生きていても意味のない人間」と言われて、どんな説得が用意されているのだろうか。
「生きよ生きよ」と連呼されても、
「人生は 食て寝て起きて クソたれて 子は親となる 子は親となる」
「世の中の 娘が嫁と花咲いて カカアとしぼんで 婆と散りゆく」
 禅僧・一休に人生の裸形を露出されると、むなしくこだまするだけである。
 
 戦争、殺人、自殺、暴力、虐待などは、「生きる意味があるのか」「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」必死に求めても知り得ぬ、深い闇へのいらだちが、生み出す悲劇とは言えないだろうか。
 たとえば少年法を改正しても、罪の意識のない少年にどれだけの効果を期待しうるか、と懸念されるように、これら諸問題の根底にある「生命の尊厳」、「人生の目的」が鮮明にされないかぎり、どんな対策も水面に描いた絵に終わるであろう。
「人生に目的はあるのか、ないのか」
「生きる意味は何なのか」
 人類は今も、この深い闇の中にある。
 どこにも明答を聞けぬ中、親鸞聖人ほど、人生の目的を明示し、その達成を勧められた方はない。
「万人共通の生きる目的は、苦悩の根元を破り、“よくぞこの世に生まれたものぞ”の生命の大歓喜を得て、永遠の幸福に生かされることである。どんなに苦しくとも、この目的果たすまでは生き抜きなさいよ」
 聖人、90年のメッセージは一貫して、これしかなかった。まさしく人類の迷闇を破る、世界の光といわれるにふさわしい。
 人気テレビ番組『知ってるつもり?!』では、戦後出版された本の中で、一番多く語られた「歴史上の人物ベストワン」と紹介された。それほど有名で、強い関心を持たれている聖人だが、その思想はアキレルほど誤解曲解されていることに驚く。
“それは親鸞学徒の怠慢だよ”
といわれれば弁解の余地はないが、今は猛省して奮起を誓いたい。
 悲しい誤解の一つをあげれば、「平生業成」という言葉であろう。
「平生業成」とは、親鸞聖人のすべてを漢字4字であらわした、いわば一枚看板とされている言葉である。「平生」とは「現在」のこと。人生の目的を「業」という字であらわし、完成の「成」と合わせて「業成」といわれる。「平生業成」とは、まさしく、人生の目的が現在に完成する、ということだ。
 親鸞聖人の特色が「平生業成」といわれるのは、聖人ほど人生の目的と、その完成のあることを強調された方はなかったからである。
 それが今日、「あなたの平生業成が悪かったからだ」とか「私の平生業成がよかったから」などと、日常行為のことのように使われたり、聖人の生命が公然と誤用、蹂躙されては、浅学非才をかえりみず親鸞学徒は、悲泣して立ち上がらずにおれないのである。

 
 はたして人生の目的は、あるのか、ないのか。
 親鸞学徒の一人として、親鸞聖人の言葉を通して迫ってみたいと思う。


◎ どんな行動にも目的があります。人生にも……


 どんな行動にも目的があります。たとえば、タクシーに乗った時。いかに無口な人でも、まず行く先を告げるでしょう。目的地がわからねば、どこへ走ればよいか困るからです。むやみに車を走らせたら、時間とお金が無駄になります。
「なんで勉強しているの?」と聞かれたら、「明日、試験があるから」「資格を取るため」などと答えるでしょう。「どこへ行くの?」と聞かれれば、「買い物」「気分転換に散歩」と言うように、行動には目的があるのです。
 では、「なぜ生きるの?」と聞かれたら、なんと答えればよいのでしょうか。
 生きることは大変です。受験戦争を勝ち抜き、就職難をくぐり抜け、リストラにおびえて働き、老いや病魔とも闘わねばなりません。人間関係のストレスに悩まされ、事故や災害、会社の倒産など、不測の事態も襲ってきます。
 これらの苦難を乗り越えて、なぜ生きねばならぬのか。もっとも大事な「生きる目的」が示されぬまま、ただ苦しみに負けず「生きよ」「がんばれ」「死ぬな」の連呼は、ゴールなき円形トラックをまわりつづけるランナーに、鞭打つようなものでしょう。


◎ 毎日が、決まった行動のくり返しと気づく


 イソップの「アリとキリギリス」の話では、夏のあいだ働いたアリは、冬は楽しく遊ぶことができました。ところが人間は、夏はもちろん、冬も働きつづけなければなりません。
「がんばって生きていれば、きっとそのうちいいことあるよ」と、それらしい体験の無かった人から無責任な励ましを聞かされても、「代わりばえのしない生活がつづくだけ」が実感ではないでしょうか。そんな人々の感覚を『完全自殺マニュアル』は、つぎのように表現しています。

あなたの人生はたぶん、地元の小・中学校に行って、塾に通いつつ受験勉強をしてそれなりの高校や大学に入って、4年間ブラブラ遊んだあとどこかの会社に入社して、男なら20代後半で結婚して翌年に子どもをつくって、何回か異動や昇進をしてせいぜい部長クラスまで出世して、60歳で定年退職して、その後10年か20年趣味を生かした生活を送って、死ぬ。どうせこの程度のものだ。しかも絶望的なことに、これがもっとも安心できる理想的な人生なんだ。 (鶴見済『完全自殺マニュアル』)

 大学生はたいてい、学校に行くとまず掲示板を見て、休講がないか探します。昼休みの食堂はいつも満員で、退屈な授業が終わると、サークルで遊んだりバイトをしたりして帰宅。2カ月の夏休み、春休みも飛ぶように過ぎ去り、4年間もまたたく間に終わってしまいます。
 社会に出たら、ますますこの回転は速まるでしょう。朝起きて、満員電車に揺られながらの通勤は、まさに“痛勤”。クタクタに疲れて帰ると、すぐ朝が来る。東京南麻布に勤める契約社員だったころ、電車のアナウンス「つぎは広尾」が「疲労」と聞こえるたびに、「今日も朝から疲れた」とため息をつかずにいられなかった。会社まで10分歩く間に、「あっ、この前すれ違った人だ」と思ったことが、何度あったか分かりません。自分も他人も、決まった行動のくり返しだと、つくづく肌で感じたものでした。
「毎日毎日ぼくらは鉄板の 上で焼かれて 嫌になっちゃうよ」で始まるのが、子門真人の「およげ!たいやきくん」(作詞・高田ひろお)です。453万枚の記録的ヒットになったのは、毎日つづく単調な日常に、「嫌になっちゃうよ」と、多くの人が感じているからではないでしょうか。
「生きてきて本当によかった」という満足がなく、来る日も来る日も「食べて寝て起きて」のくり返しならば、ゴールを知らずに走っているランナーと同じです。ゴールに近づく喜びもなければ、「やった!」というゴール突破の感激もないと思ったら、足に力が入るはずはないでしょう。目的地がハッキリしていてこそ元気に走り通せるのは、人生行路も同じです。


◎ なぜ生きるかがわかれば、ひとは苦悩すら探し求める


 生きる目的がハッキリすれば、勉強も仕事も健康管理もこのためだ、とすべての行為が意味を持ち、心から充実した人生になるでしょう。病気がつらくても、人間関係に落ち込んでも、競争に敗れても、
「大目的を果たすため、乗り越えなければ!」
と“生きる力”が湧いてくるのです。
 ニーチェは『道徳の系譜』に、なぜ生きるかがわかれば、「人間は苦悩を欲し、苦悩を探し求めさえする」と書いています。方向さえ正しければ、速く走るほど早く目的地に着きますから、損をする苦労は一つもありません。人生の目的成就のためならば、時間、体力、お金をどれだけ使っても、100パーセントそれらは生かされます。使い捨てにはならないのです。
 人生に苦しみの波は絶えませんが、生きる目的を知った人の苦労は、必ず報われる苦労です。人生は素晴らしい、と言う人もいれば、何をやってもむなしい、と言う人もいます。
 真の「人生の目的」を知るか、否かの違いでしょう。