「なぜ生きる」を知りたい人へ

人命は地球より重い。なぜそういわれる?

「生きるってスバラシイ!」いつも充実感にあふれ、未来に自信を持って生きている人は、どれだけあるでしょう。ハイテク進んで豊かさ遅れた20世紀は、「不安の世紀」とよばれ、物質的には最高に恵まれた私たちに、これといった不足はありませんが、奥底からの満足もなく、ぼんやりした不安とむなしさが蔓延しています。

  自分の人生に、意味や価値を感じられない人が増え、それが種々の事件や問題の起因だと、強く指摘する人もあります。

 

◎ どうして人を殺してはいけないのか

 

人命軽視を象徴する事件がつづいています。愛知県の高校3年生が65歳の主婦を40数カ所も刺して惨殺し、翌日、自首しました。「人を殺す経験をしたかった」と、反省のそぶりは、まったくなかったといいます。アメリカの学校では、銃の乱射が絶えません。凶弾の犠牲になる未成年者は、平成12年の数字では、1日14人にも及んでいます。
 小学生を殺害し頭部を切断した14歳の少年は、世間を震撼させました。しかしこの少年の「ボクの存在は透明だ」という言葉に、共感を覚える若者は少なくありません。
「誰からも必要とされていない私。ガラクタだもの。生まれてこなければよかった」
 「なんで生きなきゃいけないのかな。サッサと生きて、サッサと死にたい」
 私の存在は無意味、そんなむなしさを深めている子供たちは、「忘れ物をしたから」「運動会があるから」「先生に叱られたから」と、信じられない理由で命を捨てています。
 自分の命の大切さを知らねば、他人の命も尊重できないでしょう。「死んでもいいじゃん」の無知が、「殺してもいいじゃん」の暴論に、すり替わってゆくのではないでしょうか。
「どうして人を殺したらいけないんですか?」
 高校生がボソッと漏らしたテレビ番組で、シーンと静まり返った出演者たち。パタッと番組が終了し、さまざまな議論をよびました。
「人命は地球よりも重いからだ」といくら言っても、無駄でしょう。

「どうして地球より重いの?」と突っ込まれたら、終わりだからです。
 どんな人でも、答えに窮するのではないでしょうか。哲学者も、お手上げです。なぜ命が尊いか、説明できた哲学者を知らないと、P・フット(カリフォルニア大教授)は、論文「道徳的相対主義」に書いています。哲学書を何百冊読んでもわからないのです。


◎ 自殺が増えるのは、命の重さがわからないから


 日本の自殺者は、年間3万人を超えました。交通事故で亡くなる人の、3倍強です。平成10年の急増は、男性の平均寿命を下げるほどの、異常事態となりました。長引く平成不況が原因と、早計にはいえないでしょう。フランスの社会学者デュルケムは、富豪ほど自殺率が高いことなどから、経済的に豊かな人ほど深刻な苦悩にさいなまれていることを、各種の統計で裏付けています。
 米国の著名な心理学者チクセントミハイは、「生きる目的」がわからないから、どれだけ利便と娯楽に囲まれても、心からの充実が得られないのだと説明しました。自殺の根本原因も、「人生の目的の重さ」「生命の尊厳さ」を、知らないからではないでしょうか。「そんなにまでして、なぜ生きるのか」人生の根底に無知であれば、ひとは死を選んでも決しておかしくないでしょう。
 1億円の宝くじの当選券を大事にするのは、一生働いても得られぬ価値があると思うからです。ハズレくじなら、ゴミ箱へ直行でしょう。割れたコップや修理のきかないパソコンなどと同様に、価値のない物は捨てられます。
 自分の生命が地球よりも重いと知れば、「ハズレくじ」を捨てるように、ビルからの投身も、他人の命を虫けらのように奪うことも、できるはずがありません。
「人生には、なさねばならない目的がある。どんなに苦しくても、生き抜かなくては」と、生きる目的が鮮明になってこそ、生命の尊厳が知らされるのです。
 子供の相次ぐ自殺やエスカレートする殺人に、世の中は騒然としています。家庭の問題だ、教育の欠陥だ、少年法が悪い、病んでいる社会……解説は十人十色です。しかし「苦しくとも、生きねばならぬ理由は何か」、肝心の「人生の目的」が抜け落ちた議論がつづくだけでは、対策も立てようがないでしょう。

◎「辛抱して生きつづけること」
     それが人生の目的なのか?


“人生の目的は生きること”という主張を検証してみましょう。これを「忍耐して、生きつづけることが大切だ」と解釈すれば、
「そう、何ごとも辛抱が肝心。大事なのは生きること」
「一度きりの人生だから、生きることにこそ価値がある」
と共感する人も、少なくないでしょう。「人生に意味なんてあるのだろうか」と元気のない人でも、「生きている、それだけで人生には意味があるのだよ」と聞けば、慰められるのかもしれません。
 しかし、「苦しいのに、なぜ生きねばならぬのか」と悩んでいる人は、「生きることが人生の目的」と言われても、失望するだけではないでしょうか。答えになっていないからです。なぜ答えにならないのか。
 たとえば「なぜジョギングするの?」とたずねて、「体力をつけるため」と言われれば、誰でもわかりますが、「ジョギングするためにジョギングしている」と答えられたら意味不明です。「なぜ塾通いをするか」に「大学に合格するため」なら納得できても、「塾に通うために塾に通う」では、ナンセンスというほかないでしょう。
「なぜ生きるか」の問題に、「生きるために生きる」の解答は、言葉の意味からいってもおかしいのです。

◎「生きてよかった」と大満足する「人生の目的」を


 私たちは、昨日から今日、今日から明日へと進みます。“光陰矢の如し”といわれるように、本当は猛スピードで走っているのかもしれません。小学、中学、高校と進学し、受験時代は死ぬほど勉強、大学に入れば死ぬほど遊ぶ、就職したら死ぬほど働く。人生の荒海に投げ込まれた瞬間から、絶えず泳ぐことが強いられます。生きるとは泳ぐことだといえましょう。
「生きるために生きる」と言い張る人は、「泳ぐために泳ぐ」と言い張る人です。流れにただよう浮き草は、あてどもなく往きつ戻りつ、やがてみずから腐ってゆきます。泳ぐために泳ぐ人の悲運は、明らかでしょう。
「飛ぶために飛ぶ」飛行機の末路と変わりません。「生きるために生きる」人生を、空の旅にたとえたなら、どうなるでしょう。
 速度や高度はどれくらいにするか、風向きの変化や気圧配置によるルート変更、エンジントラブルの対処などは、「飛び方」の選択であり、「どう飛ぶか」の工夫です。それらの前に知らねばならないのは目的地であり、「どこへ向かって飛ぶか」の方向です。行く先知らずに飛び立つパイロットは、いないでしょう。飛ぶために飛ぶ飛行機は、墜落の悲劇あるのみだからです。
 同様に、「生きてよかった」と大満足する「人生の目的」がなければ、生きれば生きるほど苦しむだけの一生に終わってしまうのではないでしょうか。